名鉄三河線(山線廃止区間)の紹介、【薪ストーブ用】薪の販売


幻の「名鉄三河線足助駅」
終点
写真:終点です。西中金駅にて。(2002年2月)

名鉄三河線の猿投〜西中金間が完全に開通したのは、1928(昭和3年)のことです。

実はこの先の足助(あすけ)まで鉄道建設が計画されていました。
しかし、当時この路線を経営していた、「三河鉄道(1941年に名古屋鉄道に合併)」による線路の用地買収が難航したことと、さらに1929年のニューヨークの株価大暴落から始まる「世界恐慌」の影響を受け、建設は足踏み状態が続きました。

それでも、建設は断念されたわけではありませんでした。

最終的に計画が断念されたのは、1958年(昭和33年)のことです。断念された主な理由は、道路整備が進んだためであるといわれています。


もし足助まで延長されていたら、レールバスは観光路線として栄えて、廃線の危機に苦しむことはなかったかもしれません。

路盤跡は今の生活道路

足助までの延長計画は断念されましたが、実は足助町に入って約200メートルのところまで、線路の用地買収は進んでいました。
すでに買収済であったところの一部は、今では舗装されていて、生活道路として利用されています。
この道路は国道からもよく見えます。

中金町にあるのに、なぜ「西中金」?

西中金駅があるところは、中金町です。
それだったら、駅名は「中金駅」であるはずでは?という疑問が浮かんできます。
一説によると、もし足助延長線が出来ていたら、この先に「東中金駅」が出来ていたのかもしれないから、西中金駅は「西中金駅」なのだ、ということです。