修業時代の呟き

前文

英語音痴の私が英会話にのめり込むきっかけが、とある日の会社帰りに、ふと立ち寄った本屋で見つけた一冊の文庫本「私はこうして英語を学んだ。」松本道弘著であったことは、先に述べた通りである。その日を境にして私の生活は一変した。

毎週末、英語道のベース作りができる場所を求めて、カルチャーセンターの英会話講座や公民館の英会話サークルを見つけては、見境もなく参加ものだ。

以下は、その体験記である。複数を掛け持ちしていたので、期間はそれほど長くはないが、ESSかたつむりを立ち上げる前までの7年間くらいであったであろうか。

遠い昔のことなので、記憶が途切れている。とにかく英会話がで
きる場所ならどこでも良かった。英会話のパートナーを求めて、血眼になっていたのはこの頃だ。
(2012年4月に若かれし頃を振り返って)



1.イーオン英会話学校体験入学(1995年:1日)

手始めは、ほとんどの入門者が思いつく、お手軽に英会話を学ぼうとする意図が見え見栄の英会話学校への入校だ。私もその一角を担うべく豊田市の駅前にあるイーオンに体験入学した。最初に体験入学の説明があったが、そんなことはどうでも良かった。

我が心の英語師匠いわく、「英会話学校は所詮金儲け。
生徒の英会話力が伸びなくても、痛くもかゆくもない。米人や英人の講師であっても、日本人向けに話さざるを得ない彼らからは、真の英会話は学べない。」心の中では理解しているつもりであったが、まだその本質の何たるかは理解できていない。

ネイティブに交われば英会話が簡単に上達できると僅かながら希望を持っていたのだ。その日は、4〜6歳と思われる幼児、小学生も体験入学にきていた。彼らの付き添いはヤングママ達だ。小さな頃からネイティブと交われば、自然に英会話が上達すると妄信しているようだ。
聞けばゲームや歌のお遊びだけで高額な授業料を前払いするようだ。連れてきた小さな子供が黒人を見て、泣き出しても何も対処できないヤングママ達は何を期待していたのか。

さて、体験入学では米人からオリンピック競技に関して、2〜3の質問を受けた。スローな英語なので、言っていることは理解出ていたと思うが、話すこととなると言葉を失った。

1時間位の体験入学が終了して、一息ついていた頃、30歳半ばのセールスウメンが近寄ってきて、レッスン内容や授業料の詳細説明をしだした。週一回のグループレッスンを受けるにはチケットの購入が必要で、一年半の期限つきだ。費用は12万円。チャレンジしたい気持はあったが、入校は丁寧にお断りした。当時の英語力では大切なお金をドブに捨てるようなものだ。

振り返ってみれば、入門者、初級者レベルで英会話学校に入校するとしたら、徹底した自己トレーニングの実践が必要だ。
自分の身の回りで起こっていること、些細なことでよい、とにかく色々なことに興味を持つとよい。話好きな英人、米人のこと、話題が尽きることがなく、有意義で楽しいレッスンとなると思う。


2.カルスポS講師の下での修行時代:(1995年〜1996年:2年間)

基本構文の暗記に心骨を注いでいた頃、職場仲間のT氏
から「私はカルスポの英会話のレッスンに通っているが、一緒にやりませんか。」と誘われた。自己学習に飽きがきていたこともあり、参加を即断即決した。

レッスンは毎週金曜日の18:30〜20:00(1.5時間)で、受講者は5人。一人は市役所に勤めていた男性で、40歳前後であった。ユニークな受講生だ。直前にたこ焼き屋で空腹を満たし、時折ビールを飲むことが多く、吐く息が酒臭い。

レッスンは驚くばかりであった。英会話のレッスンとは思えない、レッスン中は日本語がはびこっていたので、大いに落胆したものだ。

前半はテキストのダイアログを回し読みして、ひたすら暗記する。それが終わるとテキストを伏せ、講師がダイアログを日本語でいって、受講者に英訳させるのだ。
英作文の変形だ。時折ダイアログにはない質問が意図的に入り、即興で英訳する。基本構文の暗記には効果的なメソッドであった。

後半は自由会話だが、講師は受講者に向かって、順番に
What’s new? というだけだ。受講者がしどろもどろで答えても、講師からのお助けはない。ひたすらWhat’ new? が続く。講師からのカウンターアタックもない。
インストラクションだけでも英語で通して貰えると、英会話レッスンらしくなるのだが、人に頼ること、教えて貰おうという考え方が間違っていたのだ。レッスンを受ける上では、受講者自身が目的意識を持つことが重要だ。
多少なりとも英語が聞ける、話せる場所を提供してもらえれば、それだけで大いに満足すべきだ。一緒に学ぶ仲間がいると励みにはなる。英会話の上達は自分の定めた目標に向かって、地道に自己研鑽する以外に王道はない。

振り返ってみれば、2年間のカルスポ通いで、1000位の日常会話の表現を身に着けた。基本構文を暗記するときには、常にフレーズで覚えるよう自分なりに意識したものだ。
単語レベルの記憶は英会話には役立たない。レッスンのスピードが余りにも遅く、受講中はストレスをために貯めていたが、結果オーライだ。
英会話の基礎を築いてくれた
S講師に 感謝 感謝!!
 


3.ブリティシュ英会話学校体験入学(1996年:1日)

カルスポのS講師のレッスンで、日常会話レベルのフリートークの楽しさに目覚め始めた頃、豊田市の駅裏にある英会話学校のチラシが目に留まった。イギリス英語を教えてくれる。
都合の良いことに、体験入学をやっていた。少し英会話に自信がついてきていたので、体験入学の申し込みを決意した。

英会話学校に行って見ると、講師陣は35歳前後の英人、27歳のハンサムなニュージーランド人、それとラテン系の米人であった。私の相手をしてくれたのは、英人の専任講師とハンサムな新米講師である。

専任講師はインテリで真面目なタイプ、新米講師はニュージーランド出身であるからか、話し方がとても穏やかで、ゆったりした雰囲気をもっていた。
専任講師はテキストに忠実に、サンプルダイアログを使って会話練習、新米講師は取り掛かりこそ型通りだが、いつも脱線し大半が自由会話を楽しめた。

新米講師は冒険旅行の経験が多く、話題が尽きなかった。下手な英語で質問を投げかければ、興味を引く話が倍返しで返ってきた。私の英会話力が十分でなかったこともあり、はほとんど言葉を返すことはできなかったが、飽きのこない面白い話に時間を忘れた。
体験入学は肝試しと英会話力のチェックが目的だから、入校は勿論お断りした。

振り返ってみれば、ネイティブに英会話の教えを請う場合には、伝えたいことや聞きたいことを持っていることが大切である。
それらが十分でないと、ネイティブから投げかけられた質問に「あー、うー、えっと、・・・。」と考えを巡らせている間に、レッスンは終わる。大切なお金を見返りもなく、ドブに捨てることになる。

ネイティブに交わっていても、自己学習が十分でなければ、英会話は上達しない。上達を感じなくても英会話が楽しいというのは、知的なことに触れているという雰囲気に酔っているだけであろう。


4.カルスポM講師の下での修行時代(1997年〜1998年:2年)

これから馬力をかけて頑張ろうとしていた矢先に、突然S講師のクラスがクローズした。入門者から初級者に変化しつつあった頃だ。突然の出来事に戸惑い、この先どうして行こうか途方に暮れていたとき、職場仲間のT氏から、「カルスポには中級者のレッスンもあるが、一緒にやりませんか。」と誘いがあった。

中級クラスで落ちこぼれることなく、ついていけるか不安ではあったが、我が心の英語師匠松本道弘の言葉、「上級者を目指すなら、2レベル上にチャレンジせよ。」を思い出し、参加を決意した。初級者クラスと同様、18:30〜20:00に開催された。受講者は5名、レッスンは初級クラスと同じだ。

講師は30代半ばで、なかなかチャーミングだ。2年間の受講中、世俗のイベントに無頓着な私にも、年末には心に残る一言が添えられたカードが、毎年送られてきた。

前半は基本構文を含んだダイアログのまわし読みと暗唱、後半はフリートークだ。インストラクションの一部は、英語に変わっていた。さすが中級クラスだ。すべて英語であれば良かったが、ない袖は振れない。

初級クラスで基本構文を一生懸命覚えた成果がでたのか、経験したことを表現することには、それ程苦痛にはならない。
フリートークは一人ひとりが準備してきたショートスピーチを披露した後に、意地悪質問を受ける。

M講師は辞書を引きまくって作成したスピーチをひどく嫌った。辞書に頼り過ぎたスピーチは、表現が硬すぎて違和感があるということであろう。
最後のレッスンでは、夫がシンガポールに赴任するので、レッスンを閉鎖せざるをえないと涙ながらに挨拶をされた。

振り返ってみれば、カルスポのレッスンを受けて以来、石の上にも4年。基本構文の蓄積が功を奏してきたのか、英語で話ができる楽しさを感じた。ますますやる気満々だ。
それに伴って、「何処どこへ行った。楽しかった。嬉しかった。」の類のスピーチには、飽き足らなくない。中級者のレベルに達したとは言わないが、心の中ではニンマリだ。
基礎的な英語力が伸びた。M講師に、ありがとう。


5.カルスポX講師の下での修行時代(1999年:1年)

M講師がシンガポールに飛び立ってしばらくすると、中級クラスに新しい講師がやってきた。歳は30前後、なかなかの美人だ。英会話を教える女性講師は美人が多い。講師のジェンダー、歳は、どうでもよかった。

レッスンのコンセプトがしっかりしており、受講者が理解できようができまいが、英語でしゃべりまくってくれるのが理想的だ。ところがやはり、「失敗を恐れるな。質問しなさい。自己主張しなさい。」という意味のあることを教え諭すことも無く、恥をかいてでも英語で通すという一途さも無い。
いかにも学校スタイルのやり方、グラマーや英文学だけを一生懸命してきたようだ。

手始めは、カセットテープに吹き込んだダイアログを聴かせる。虎の巻を読むだけの質問が続く。
受講者は解答を
Yes/Noで応える。理由を問うとか、こういう表現もあるとか、もう少し英会話の力を上達させる工夫ができたのではないか。

次はフリートークだ。各人が用意したスピーチを発表し、その後に
Q&Sが続く。質問を投げかけてもレスポンスが遅いことに加え、スピーカーを困らせてはいけないという情け心を持っていたので、ストレスが溜まった。
言いたいことを自分の言葉で、何とか伝えようとする心意気が感じられない。

最後のリーディングは学校英語そのものだ。半ページ程度を目安に音読と日訳を繰り返す。教材は中級者用の「追跡」だ。それが終わると、上級者用の「ゲームの達人」に変わった。
英訳ばかりのレッスンでストレスが溜まったが、教えて貰うと言う魂胆が間違っている。英会話修得に有効な手段となるように、取り組み方を自分なりに工夫することが必要だ。

私の工夫点はパラグラフの英訳をしている最中に、ストーリーの要約をする。使えそうな表現を暗記する。暗記した表現を織り交ぜながらスピーチを作成する。出し惜しみをせず恥をすてて、フリートークの場で使ってみることだ。
このような泥臭い活動を地道に実践していれば、英会話の力は一歩一歩確実に伸びていく。


6.カルスポK講師の下での修行時代(2000年:1年)

X講師がやめられた理由は定かではないが、教えるということに自信を無くしたのではないかと推測する。
新しい講師はロサンジェルスに13年住んでおり、仕事は秘書をしていた。英語圏での経験は申し分ない。「やったー。」、やっと本格的な英会話ができると胸が高鳴った。

レッスンは前半が訳読、後半がフリートークで、前任者と同じだ。海外に13年住んでいたキャリアの持ち主の英会話の実力は如何ほどなのか。

期待は初回のレッスンで吹き飛んだ。「ゲームの達人」の訳読も前任者と同じだ。割り当てられたパラグラフを読んで、順次日本語に訳していく。
訳した日本語が意味不明でも修正もない。英語圏に13年住み、キャリアも十分なはずの講師、期待があきらめに変わる。フリートークも期待はずれだ。

一人でコツコツ英語を学ぶよりは刺激があったので、一年くらいは通った。レッスン中は自分なりに工夫して、少しでも満足できるように努力した。
訳読では、意味不明の単語はあらかじめ辞書で調べておく。誰かが訳読している間には、心の中でパラグラフの中身をラップアップし、ブツブツと一人スピーチに専念した。
フリートークは定番の 
” What’s new? “ で始まり、自由に質問できるが、当たり障りのない質問をしなければいけないという妙な雰囲気が漂っていた。何か変だ!絶対変だ!

工夫点といえば、自分の経験や意見を述べた上で、質問をするように心がけた。単刀直入の質問にならないように、言葉のキャッチボールが楽しめるように努めた。
このようにすれば会話が会話らしくなる。それが英会話の醍醐味なのだ。単発の質問にただ答えるだけでは会話が弾まない。

いつも刺激のないレッスンではあったが、水を得た魚のように英会話が盛りあがったときもある。講師が渋滞にはまって遅刻したときに、小生の声掛けでフリートークを実施したときに、いつも以上に会話が弾んだのは皮肉なことだ。
やり方次第では、講師なしでも英会話は十分楽しめると胸の中で微笑んだ。

振り返ってきれば、英語圏に長年住んでいても、英会話を教えるノウハウがないと講師は勤まらないこと、外国に住んで自然に英会話を身につけた人でも、話題力がないとコミュニケートできないこと、一冊の文庫本「私はこうして英語を学んだ。」松本道弘著に書いてある通りだ。
益々、意を固くして、英語道にまい進することを決意する。


7.JALTミーティングでの修行時代(2000年:1年)

カルスポの英会話クラスに参加して、5年位たった頃であろうか。日常会話にすこし自信が芽生えてきていた。本当に実力がついていたかどうかは定かではないが、意気込みと問題意識だけは人より勝っていた。
常に伝家の宝刀、“
WHY”を連発し、スピーカーが答えに窮すると、お主修行が足りんぞと言わんばかりに、心の中でニヤリしていた。

とある日、中学校で英語を教える先生たちが、教育法をシェアーする会があることを知った。会場は名古屋、豊橋とその時々で違うが、いずれも車を飛ばせば一時間くらいで行ける。
参加者の大半は日本人であったが、英会話に飢えていたので、迷うことなく参加した。

前半は効果的な教授法のスピーチとQ&A、後半はパーティ形式のフリートークだ。これまでの修行が話すことに重点を起き過ぎていたのか、聴き取りには随分苦労した。フリートークではしっかり聴けないことに加えて、話しかけたくても話題がない。

挨拶や自己紹介に始まり、徐々に世間話に移っていっていくのだが、あっという間に話題が尽きてしまう。
聞きたいことや話したいことの蓄積がないのだ。単発の一方的な質問に終始することの、苦痛なこと、苦痛なこと。

カルスポの英会話クラスでは、豪華なレストランへ行って美味しいものを食べたとか、スポーツをして楽しかったとか、いわゆる“
What’s new?”に始まり、“What’s new?”で終わる英会話に終止していた。


上達を少しずつ実感してきてはいたが、実際は殆んどコミュニケートできていなかったのだ。英語を学ぶというより、決められたテーマについて、英語で議論しあうJALTのような場では、What
new? の類の経験談を伝えるだけの英会話では場がもたない。
一段上の何か別の話題を蓄積しておかなければ、会話の場に入れない現実を味わった。

振り返って見れば、英会話を始めて5年が経過したわけだが、英会話の修行が苦しいと感じたことは一度もない。
小さい頃から好きなことにはトコトンのめり込む性格が良いほうに利いたのだろう。
松本氏の英語道を語るにはまだまだ遠い道のりだ。少しでもその領域に近づけるよう、地道に泥臭く修行を継続するだけだ。


8.名古屋English Societyでの修行時代(2001年:1年)

JALTミーティングに加えて、名古屋国際センターで1回/月(土曜日 13:00〜15:00)開催されるイングリィッシュ・ソサイアティにも足蹴なく通った。

会の開催は、中日新聞の地域欄で知ることができた。参加者は大体いつも15名程度であった。カルスポの英会話クラスと違って、英語によるプレゼンが聴けた。
プレゼンの後にはQ&Aセッションがあり、会員制のサークルではあったが、当日1000円払えば誰でも参加できた。

参加者は中年以上のビジネスマン、大学生が大半を占めていた。名古屋市内だけでなく、近郊から参加している英語好きも結構いたようだ。スピーカーはどこそこの大学教授が担当していた。
日本人であったり、米人であったりしたが、恐らく、小遣い稼ぎであろうことは想像できる。

テーマは、「少数民族の文化」や「日本文化と西洋文化の違い」等いささか格調が高かったが、時には海外旅行の体験談等当たり障りのない一般的なものもあった。
それでも、プレゼンとQ&Aが、全て英語でやり取りされる会ということで、長く待ち焦がれた末に、やっと見つけた理想の世界であった。

ただ、当時の私の英語力では、プレゼンは70%位しか理解できなかった上、Q&Aは殆ど聴き取りができず、問題意識があっても質問は何ひとつもできなかった。
気後れしていたのであろう。もう一段上のレベルであったら、Q&Aにも積極的に参加して、楽しいひと時を過ごせたと思う。


英語の修得は、個人個人がいかにモチベーションを高くもって、自発的に自己学習を継続していくかに尽きるのだ。「美しい。かっこいい。すごい。」、そんな英語を目いっぱい聴いて、読んで、盗んで真似て、一歩一歩、地道に、泥臭く、進んでいくしか手段はないのだ。
「少しは人並みに近づいた。もう一歩だ。英語道の習得は遥か彼方だが、少しずつ近づいてきている。泥臭く頑張ろう。」といった、小さな自信が芽生えてきた頃だ。ますますやる気満々だ。

振り返って見れば、スピーカー以外は決して流暢とは言えないが、会の運営がすべて英語でやり取りされる会は事のほか新鮮であった。また、聴講者に媚らないところが良かった。

質問があれば、その質問にしっかり答える。なければ、「はい、お仕舞い。」の精神だ。いわゆる、学校ではないのだ。
聴講者に「分かりましたか。」と尋ねることもない。
形式的な確認はあったが。質問があれば、常に自主性に任せる。会を運営する立場に立てばストレスを感じない理想的な運営だと思う。

9.名古屋English Forumでの修行時代(2001年:1年)

イングリィッシュ・ソサイアティに通うと同時に、イングリィッシュ・フォーラムにも足を伸ばした。
開催頻度、場所、参加者の層は、イングリィッシュ・ソサイアティと同じだ。一見、姉妹サークルではないかとも思うが、定かではない。

唯一違う点は、活動内容だ。前半は討論会、後半は会のオーナーと思しき
S氏の独演会であった。討論のテーマは予め決まっていた。チェア・マンと思しき司会者が、会の開始を宣言し討論会がスタートする。スタート後は表面だった特別なルールはない。

英会話に自信のある人から順番に意見を述べていくのだが、持論を長々と話すこともなく、自発的に頃合いを見計らって話を止めるという暗黙の了解があった。
討論会とはいえ、ほとんど反論する人はいない。ビジネスの場では、議論の途中に頭に血が上り、冷静さを欠く人もいたが、ここでは皆大人の振る舞いだ。

司会者がいるとはいえ、発言しない人へのケアーは全く配慮なかったので、議論に食らいつく積極性と最低限の英語力が必要であった。
英会話を始めて3〜4年目の小生の英語力では臆病にならざるをえず、常に傍観者に甘んじていたが、「今に見ておれ。いつか論破してやるからな。」と心の中で叫んでいたものだ。

ひと通り議論が終了して、参加者の口数が少なくなってくると、討論会はお開きとなった。特に司会者からの総括もなく、
「えっ。もう終わり?」という感じだ。

討論会が終わると、後半のイベント
S氏の独演会に移る。S氏は国連で15年間くらい働いていた経歴の持ち主なので、英語力は相当のものだ。
国連英検の特
A級をもっており、英会話には自信がみなぎっていた。テーマは即興だ。経験談を面白おかしく、エッセイ風に日ごろ心に感じていたことを包み隠さず披露された。


印象に残ったテーマは、国連の組織と活動内容だ。また、万人受けする英会話修得の極意も興味深かった。
S氏の英語力は抜きん出ており、その他参加者は大いに気後れしており、質問がほとんどなかった。

振り返ってみれば、カルスポから始まった英会話修行も5年目を終えた。挨拶、自己紹介から始まって、やっとディスカッションが出来る入り口まで辿り着いた。
英語道のランク表に照らしてみれば、4級辺りという事か。ランク表には「英会話同好会のようなサークルに始めて飛び込む段階。英会話に接しているだけで毎日が楽しくなる。」とある。
まだ先は長い。一歩一歩、地道に泥臭く、歩んで行こうと、再度肝に銘じる。

10.名古屋英語道場主催ディベート・コンテストの見学(2001年:1日)

名古屋English SocietyやEnglish Forumに参加して、英会話修行をしていた、とある日、我が心の英会話師匠の松本氏の英語道場名古屋支部が主催するディベート・コンテストが開催されることを知った。

松本氏もジャッジとして参加されるとのこと。
即断即決で見学を決めた。中区役所かどこか大学のひなびた大部屋に若い英語好きな連中が部屋一杯に集まっていたから、50−60名が見学していたと思う。
ディベーターは大半が名古屋地区の大学の
ESSに属していたようだ。彼らは常日頃ESSで英語力を磨く傍ら、英語道場にも通い、松本氏の指導を受けていた。

テーマは「陪審員制度の是非」であった。肯定派か否定派はその場で決定され、自身が持っている考え方と必ずしも一致しない。小生のリスニングの程度は
ZEROに近く、お手上げであった。
単語レベルでは、聞き取れる言葉もあったが、コンテキストという点では恥ずかしい限りだ。もう少し聴き取りできると思っていたので、屈辱以外の何ものでもない。

松本氏の総括スピーチは、驚くばかりに流暢で美しい英語であった。メソポタミア文明と銘打って、30分くらいのスピーチであったが、ほとんど聴き取れていない。
どこかの大学の助教授が勝敗の結果とその理由を英語で説明されたが、こちらの方はかなり聴き取れた。同じ日本人の英語でもこんなに違いがあるのかと驚いたものだ。

ディベート・コンテストを見学してよかった点は、達人と言われる人の英語を肌で感じることができたことで、英会話学習に弾みがついたことだ。
リスニングが出来なければ、全く勝負にならないこと。英会話は知的格闘技になり得ること。

スモールトークの先には、ディスカッションやディベートの世界が待っている。知的格闘技に生き残るには、スモールトークが流暢にできるだけでは駄目なのだ。英語道初段は、夢のまた夢。これらのことに気づくことができたのは、大きな収穫だ。
モチベーションは高まるばかりだ。 
GO! GO


11.朝日ヶ丘公民館での修行時代(2002年:1年)

仕事のカウンターパースンのO氏から「朝日ヶ丘公民館の英会話サークルに参加しているが、お試ししませんか。」と誘われた。
いろいろなところから英会話学習の誘いを受けることは嬉しい限りだ。英語が話せるところならどこでも良かった。参加を即断即決した。

活動は毎週土曜日の13:00〜15:00(2.0時間)だ。参加者は10名くらい。スナック付のお茶も振る舞われた。
講師は大学を定年退職した英文科の元助教授という肩書きの女性だ。英会話サークルへの参加が初めてであったことに加え、元助教授に教えを請うことができる。
本格的な英会話修行ができるとワクワクしたが、初回の活動で、期待は木っ端微塵に吹き飛んだ。

前半は英作文、後半はスピーチだ。いずれも英会話と呼ぶには程遠い。英作文では講師が日本語の文章を白板に書いて、生徒が英語に翻訳する。
講師は翻訳された英文を添削しつつ、これが主語、これが動詞、これが関係代名詞といったふうに文法を説明する。

スピーチは過去一週間に経験した出来事を発表する。
質問はご法度な雰囲気があって、英会話の醍醐味であるレスポンスを楽しむことは出来ない。
多くの仲間が集まっているのだから、もう少し工夫ができるはずだ。自宅で一人でもコツコツできるお勉強スタイルの英会話サークルなら、わざわざ参加する意味はない。
相手がいてこそ、英会話の醍醐味が楽しめる。仲間が大勢いたのに残念でならない。

振り返ってみれば、小生が出会った講師達は大学で英文学を専攻したり、英会話を勉強したり、留学して英会話を身に着けている。地道に泥臭く、英会話を修得した経験が無いのであろう。

英会話は知りたいことを聞く、言いたいことを伝え、理解できないときは分からないと言う、瞬間に「できない。」「難しい。」というような考えが閃いたら、即座に
”Impossible””Difficult” と先ずは言ってみる。

講師の質問に学校スタイルで馬鹿正直に答える必要はない。受け答えの過程のやり取りが楽しいのだ。教える側も教えられる側も、多くの仲間がそのような自覚を持って、英会話講座やサークル活動に参加すれば、さぞや楽しい集まりになるのではないか。
益々やる気満々だ!


12.竜神公民館での修行時代(2002年:1年)

朝日ヶ丘公民館の英会話サークルに通い始めて数ヶ月くらいたった頃、竜神公民館でも英会話サークルがあることを知った。
できるだけ英会話に触れる機会を増やそうと思っていたので、即断即決で参加を決意した。

8名位のメンバーが、毎週金曜日の19:00〜21:30(1.5時間)に、英語が好きな仲間が集まって、スモールトークを楽しんでいた。巷で言う講師、いわゆる先生の類はいない。
豊田市では小遣い稼ぎとなっているサークルが多い中、参加者が自主的に運営している唯一の英会話サークルであった。

会員の中にはアメリカ人やカナダ人をホームステイさせていたり、子供が外人と結婚していたりして、英語を話す機会には恵まれていた人達が多い。
2回/月は外人をゲストとして迎えていたので、会費は3000円/月と割高だ。
ゲストは交換留学生や中学校英語のアシスタントティーチャーだ。英会話が生きがいで、三度の飯より好きと言っておられた50歳くらいの男性が司会をしていた。

参加者が思い思いのテーマを持ち寄り、アトランダムにスピーチと
Q&Aを繰り返す。小生が長年探し求めていた日本語を介さない理想的なサークルであった。

名古屋国際センターでは聞き役ばかりで、気後れして話をするチャンスがなかったが、ここでは何故か話が弾んだ。
英語力の向上に伴い、英語を話すときの恥ずかしさが少しずつ失せてきていたのであろう。和気藹々とした雰囲気の中で、異文化交流も盛んであった。

特に、バーベキューパーティーと忘年会は思い出深い。
忘年会の2次会では、カナダから来ていたメガネが素敵な20歳の交換留学生とデスコダンスを踊った。

会ではいつも真面目そうな物言いをしていたが、この時ばかりは人が変わったようにはしゃいでいた。飲むわ、踊るわ。さすが、20歳。

40歳台半ばの小生にとっては、ダンスの最中にハッピー、ハッピー
with YOUと叫ばれて、恥ずかしくもあり、嬉しくもあり。