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        生き方、死に方
          序章 とらわれないこと
 人とは何と不自由な生き物なのか、何かを思えば何かにとらわれ、何かやろうとすれば様々なしがらみがまとわり付き、人を思えば情に流され、常に何かにとらわれて生きている。
 生きるという事は常に死に向かって歩いているもの、言ってみれば死するために生きているのが人生とも言えるのではないか、すなわち死することが生きる事であり、生きる事は死することである。故にいかに死するかが、いかに生きるかという事ではないだろうか
ありのままに生き、ありのままに死する、それが人生の免許皆伝なのかもしれない、だが先に述べたように様々なものにとらわれ縛り付けられ、生きにくく死ににくくしている自分がそこにいる、今こそ全てを解き放ち自由な心の旅立ちをしよう、
                           以下続く
 
苦の種を播くは悲しき我が心
神に預けて楽の実となる

 
 己の生きてきた道は、全て自分自身が選んできたもの、決して他人が決めたものではありません。己が己がと自分自身で人生の種を播いて、悩み苦しむよりも全てを神にゆだね賢明に生きることが一番利にかなっているのです。
教え詩
現 世 記
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4月1日
    人が生きていくことは、何故難しいのだろうか?他の生命
体は、与えられたままの素のままで生きていくことと種の保
存だけを考えてその生命を懸命にまっとうしようとしている。
    人だけが余計な欲望を持ち、生きていくことを不自由にし
ている。人が人としての存在しうる事こそが他の生命体が持
ち得ないより多くの欲望なのかもしれない。
   神に与えられた、欲望こそが人類が他の生命体より優位に
たてるパワーなのかもしれない。(あくまでも人類の視点か
らではあるが)
   他の生命体から見ると、人類ほど愚かしい生物はいないの
かも知れない。
   たしかに他の生物より繁栄しているのかもしれないが、そ
れさえも砂上の楼閣にしかすぎないのかも知れない。
  そして、何よりもその繁栄の陰にはおびただしい犠牲があり
破壊と殺戮の繰り返しのうえに栄えている。
  たの生物は、種の保存の為に最低限の犠牲を強いることはあ
るが、 それは、また他の命として蘇る連鎖のつながりだが、
人類だけは人類を殺し、何よりも母なる大地を破壊する行為を
繰り返し続けている。人類こそ命の大切さを理解していない生
物なのかもしれない。