なぜそれほど名前の由来を紹介したいのか?
写真:広梅橋の親柱(2001年11月)
鮎形?の親柱がかわいらしい。
ちなみにこの親柱は数年前の橋の改築工事の時に設置されました。
それまでのものは、近くの交差点に記念として置いてあります。
(下の写真を参照)
某ガイドブックに、「広梅橋」が誤植で「紅梅橋」となっていたので、ここでどうしても「広梅橋」の名前の由来を紹介したいのです。
広瀬の梅村さん
矢作川をはさんで、駅側の地名は「東広瀬」で、その対岸は「西広瀬」であります。
橋ができる前は、両岸に住む人たちは、渡し舟で行き来していました。

1927年(昭和2年)9月に、三河広瀬駅は開業しました。

駅が開業したのに、西広瀬の人たちは渡し舟をつかって川を渡らないと鉄道が使えません。
さらに、渡し舟では増水したときに使えないし、積荷にも限界があります。

そういうわけで、ここに橋を架けよう、ということになりました。
写真:昔の広梅橋の親柱

ところが、いざ架けようという話になったのはよいのですが、橋の総工費は3万6343円でありました。
この金額は、当時のこの近辺の村「石野村」の昭和2年度の予算額である、2万6850円をはるかに上回ることからもわかるように、とても大きな額でした。

これほどの額の工事ともなると、ためらってしまいます。

そのとき、村内の有力者である梅村源次郎さんが寄付申し出をしました。
これをきっかけとして、橋を架けることが決定しました。

橋の総工費の内訳は、
県の補助金 1万2000円
石野村費 1000円
寄付金 2万3343円
寄付金のうち、ほぼ半額を梅村さんが、残りを周辺地域の人たちで受け持ちました。

そんなわけで、橋の名前は、広瀬の「広」と、多額の寄付金を出してくれた梅村さんの「梅」から、「広梅橋」となったのです。

ちなみに、広梅橋が起工されたのは1927年(昭和2年)で、完成したのは、1930年(昭和5年)のことです。

橋を架けるのにかかわった全ての人、どうもありがとう。

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